日本語の源流を求めて(大野晋)

随分前に読んだ大野晋の本のタイトルは何だったか、やはり同じ岩波新書だった気がする。その時は日本語とタミル語に見過ごせない共通性があるようだとは感じられたものの、単純に日本語の起源がタミル語とは納得できなかった記憶がある。


新しく出た本書の第二章にはこうある。

タミル語と日本語との場合でも、私は研究の初歩の段階では「同系語」という述語を使い、「日本語・タミル語の同系」と自らも言い、世間でも「日本語のタミル語起源説」という言い方をした。しかし実は日本語とタミル語の関係は、シュライヒャーが図に書いたような関係ではない。タミル語が北九州に到来するまで、日本語とタミル語とは何の関係もなかった。もちろん同系でも何でもなかった。北九州の縄文人は、タミルから到来した水田稲作・鉄・機織の三大文明に直面し、それを受け入れると共に、タミル語の単語と文法とを学びとっていった。その結果、タミル語と対応する単語を多く含むヤマトコトバが生じたのである。


ひょっとしたら僕が読み取れていなかっただけで、以前読んだ本に同様の事が書いてあったのかも知れない。ともかくもこの部分を読んで、ああこれならと納得がいった次第だ。生物の進化に喩えれば、ウイルスや共生による異種間の遺伝子水平伝播だ。タミル語と日本語の場合、一つ二つの遺伝子が伝播した程度の話ではなく、αプロテオバクテリアが細胞内共生して真核細胞のミトコンドリアになったとか、そういうレベルの多大な影響があったという事かも知れない。


言語の比較だけでなく、この本には墳墓の様式など様々な文化的比較も行っており、非常に面白い本だった。だけれども、残念な事に検証の方法が科学的でない。特に肝心の言語比較の部分が、そういう意味で物足りなかった。しかし、個人的には大野晋の直感は当たってる気がする。


この本、第一章は大野晋セレンディピティがやって来る経緯が書かれていて、これが良かった。しばしば大発見をした人は「ラッキーだった」と回想するのだが、セレンディピティというのは実際のところは、唯漫然と宝くじを買い続ける行為とは全く異なる。そして、それが良く分かるのが大野晋の例だった。大野晋も八十八だそうだが、日本語に対する情熱が本書からあふれ出てきている。かくありたいものだ。

日本語の源流を求めて (岩波新書)

日本語の源流を求めて (岩波新書)